大分三教会 証し集  「コイノニア」  に 寄せて

           この世の旅路に長くあって 近頃思わされること

  この世の旅路に半世紀以上も置かれていると、何と多くの人の生死に直面せざるを得ないことか! この半年(昨年の8月以来)、ことのほか近しいお人達との別れを味わった。
★愛する大切な祈りの友。
★この10年らいのお付き合いで、 健気に肝炎と戦って(医師や、病院 訴訟団へと 共に足を運んだ、、イエス様の話もよくした、、) 逝った大切な人生の先輩
★私がどうしようもない俗物であったころ、
(幼き日ごろから、東京で翔んでいるつもりで研究所と大阪の工場を 新幹線で行き来していた頃まで、 息子だけしかいなかったせいもあるかもしれないが、、 私を可愛がり、叱咤激励もし 躾けてくれた賢婦人の誉れの高き 叔母)“東京の母”
★主人の同窓生。(同窓会を楽しんで帰宅、その夜、お風呂場で、、)
★義妹の実母 (此方もお風呂で、、)
★東京の母の2番目の息子(従兄弟)の義母上
★実兄(2番目の兄、所謂頭のいい、私に強い影響を与えた彼は76歳で、突然逝った)

  最初の友のとき 立てなかった! あまりのことに涙も出ず、、、頭は空っぽに、、
主は私の叫びに応えて、 役目を果たすべく 体だけは 動くようにしてくださった。
が、魂は日を追う程に 悲しみと寂しさとで 撓え萎んでいった。
悲しみにくれる 親族皆様の目の前で、、、、  主に祈った。
 「主が祈りと学びと日々の歩みの友を、み腕に 確かに抱きとり給うたことを示し給え」と、  
 「この時 知恵と思慮と身を適切に処す力をくださるように、、、」と。
私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな。』と仰せられました。(哀歌 3:57)
主が、これらのことが起こることを赦されている と、、、、理解している。
(世から来るもの或は自分のうちから出て来るもの を主が赦され お用いになること)
ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」 (ゼカ  8:23)今、霊的には平安なのに、体が動かない!  私のたましいはしなえ萎んでいる、、、、

 しかし 神は 主権を持って必要なものを 必要な時に備え給う お方である。
わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。(エレ 31:25)今までにそうであったように、インマヌエルなる主イエス・キリストは どんな時にも、どんな状況に在っても、 常に一緒にいてくださる。 遠く高みから『可愛そうに、、気の毒だね』と人事の様に声を掛けられるのではなく、共に泣いて下さっていることが分かる。
今はよろこべなくても、大きな感謝をささげることを得させ、喜び、悦び、歓ぶことが出来るようにしてくださることを  私は知っている。

 神に向かう心の状態がどうであるかを明らかにするために、、:( 主イエスと一つであり、育まれ養って戴いているにも係わらす)己の勝手な思い込み、願望 が 混在する自分の視点から、 神の視点へと 視点を移すために 困難を赦される、、と知っている。
心を探っていただく必要がある、、、、、。      この困難 試練は、私を精錬し、主にふさわしき者に建て上げ、育んで下さろうとの 愛のお心からであることを知っている。

 ある病を得た姉妹が「リスチャンより、ノンクリスチャンの方が 余程礼儀正しいし、
常識があり、思いやりがあって、優しい。 助けてくれるのは ノンクリスチャンの方だ」 と  言っていた事を思い出す。確かに、教養豊かで、知識も能力もあり 礼儀正しく 常識もある 未信のお人が沢山いらっしゃる。
では、人格者で 篤実、能力的に優れたお人である 信仰を持たない人と、 キリスト者(キリスト教の信者ではない) と どこが違うか!?!  
結論から言えば、内なる霊が起こされた人か、 アダムによって生れた人か。 パウロによれば、 霊的な人か、肉的な人か。  また、イエス様系列か、 アダム系列か。  更に言えば そのお人が持つ アイデンティテイーが、霊的である(神主権)か、人間的である(人間主権) かの 違いである。

   では、霊的アイデンティテイー とは 何か   
  聖書(神のラブレター)では、キリスト教信者ではなく、キリスト者はどのような者と表現されているか、、、御前での立場は何であるか? 
聖書は神が人に示された 神ご自身のことばであり、 敢て神ご自身をその中に閉じ込めることによって、ご自身を現わしてくださっている契約の書ある。 そこにキリスト者は何であると書かれているか? 人の判断 思考、理論ではなく、霊的事実としてのキリスト者の記述を 聖書から拾い出してみる、、、、

   新しき人=罪人修繕中ではなく、全く新らしく造り替えられた者(コロ 3:10)
   国籍は天にあり (ピリ 3:20)
   義人(と看做して頂いている者)(ロマ 3章)
   神の家族(エペ2:9)
   主イエス、キリストが、兄弟と呼ばれた者(へブル2:11)
   御霊が 内に住まっておられる者(エペ2:21‐22)
   神の神殿(幕屋)(エペ2:21‐22)                                   
   キリスト信者はすべて祭司ある(エペ2:19,Ⅰペテ2:5,9,黙1:5‐6)
   イエス・キリストの証し人(証人)(ヨハネ15章 使徒1:8)
   永遠のいのちが泉の如く その心から 湧き上がり、溢れ流れる(ヨハネ 7:38)
   土の器 (Ⅱコリ4:7 Ⅰコリント15章)
   天のところに座らされた者(エペソ 2:6)
   勝利者(Ⅱコリント 2:14)
   上へ伸びるものではなく、横へ拡がる者(ヨハネ 15:5)
          ・
          ・
          ・        
  まだまだ 拾い上げ、数え上げて行けば、沢山あると思うが、、、、このように人の思考では、とても考え得ない 神の御前での立場が明確に記されている。 これは全く私の視点:人間の視点ではない。  しかし、神は、そう仰っているのである。 聖書に明記されている霊的事実である。 間違いなく 主が 既に成してくださった事実なのである。 
すごーーーい!!! 思えば心震える、、!!! 感謝 感動 歓喜 畏敬 畏怖、、、、私の貧しい語彙では言い表すことの出来ない畏懼の念に満たされ、心は飛翔する。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピり 4:4)これを 喜ばずに居られましょうか!! 嬉しくてジャンプです。

  神の御前で、如何に素晴らしい霊的立場を戴いているかを知り、その戴いた
霊的アイデンティテイーを、己が思考のうちに握り、如何に決断して歩行くか、、
言い換えれば、その人の信仰の言葉、生活による、違いで ある。
あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。 (ダニ10-112)  これらは、すべてイエス・キリストにあって(よって:依って:拠って:因って:由って:縁って・頼んで 内に在る、、、)のことで、 外なる人:肉の部分を 見るのではない。 
この世の人の 評価ではない。 状況倫理ではない。
彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――( エレ 1:8)要は  主が既に為してくださった事実をアーメンと受け、それを歩むかどうか、、
自分が気持ちいいかどうかではなく 主が喜ばれるかどうかである。
(自分の喜びは 主の喜びの結果 すなわち ベクトルが上から自分へ来るのである)
 義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。(イザヤ51:7)イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。(申命記 10:12―13)

  如何なる 霊的アイデンティテイー を主から戴いているかということによって その人の歩み方に、言動に違いが生じる。
イエスは、 「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように。」 と 仰っている。

  この半年間の度重なる葬儀に、ある時は参列し ある時は遠くから祈るのみ、、、、
が、 ベイビークリスチャンであった頃の 葬儀出席と 今回の一連のそれと では 私の思いに 心に 大きな変化が生じていた。 主イエスが 共に在って その変化をあきらかに見せて下さったのだ。 

  神が語られるのを聞き、御言葉に従うと、思いのうちに決定 或は 決心して御前に出て 座るとき、主は かそけきみ声を 特別に 特別な仕方で聞かせてくださる。
『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』(へブル)主イエスのお守りと導きが明らかにされ、置かれている状況は何も変らずとも、霊的には平安で、健やかに居ることを得る。 従って お人にも 柔和に接するを得る。 悲しんでいる親族に、真理なるお方が 今、そのときに分からないからと言って 塩を擦り込むようなまねはしなくていい。 否、すべきではない。 主イエスが知恵と思慮を与えてくださるのである !!!  ハレルーヤ  感謝します。
私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたにこいねがったこと、、、、(ダニ 2:23)ただ、何方を信じ 何方に従い、礼拝すべきお方は何方であるか、、 旗幟は鮮明であるべし、、、如何なる人の戒め 教え 勧め、説得があったとしても !
 人の思いを探られる 主イエスの み言葉に 魂の闇を 切り開いていただいて、み光に照らされて浮かび上がった黒きを 手放すとき、 主イエスの安息に入れられる。
信じた私たちは安息にはいるのです。(へブル 4:3)
神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。(へブル 4:10)

  「私が こうして、ああして 頑張ったから、主は 祝福してくださった。」 のではない。学びだ 研修だと ばたばた パタパタする必要はない。 自分の何かで自分自身を向上させ 育てるのではない。 努力や頑張りは、人の目には立派に見える が 視点が自分:人間にあるのだ。
  役に立ちたがるのではなく、主が用いて下さり易いように、自らみ言葉をしっかりと聴き(偉い人に教えてもらうのではなく 私自身に語ってくださる主のお言葉を 直に自分の霊の耳で聞くのである) 整えられていることこそ大切である。 呼ばれたとき 「はい ここに居ります。主よ!」 とお応えできるように 心の準備を 怠らないで、在らせていただきたい。
 「主が置いて下さった時 所に 先ず座って、み言葉を聴き 普通のおばさんとして 戴いた“いのち”を感謝して  精一杯 喜ばしく 日々歩み行かせていただく、、、、と、 主が、実を結ばせてくださった。」  主の主権に従うとは、このことであろう。

  主イエスが「兄弟と呼ぶことを恥としない」と言ってくださった者にふさわしく (私は持っていない)愛と信仰を戴いて感謝し 主に信頼して 喜んで一歩踏み出し、開いてくださった扉を潜り、 右にも左にもそれず 主のみ跡を辿る道を 歩み行かせて頂きたいものである。

  神のみ言葉を聴く
御言葉に従う
主を愛し礼拝する を得させ給え。 
 自分を見れば出来ません。 しかし 神は 何でもお出来になります。
私が弱いときこそ 主のみ業が成ります。 (Ⅱコリント 12:10)(イザヤ 30:15)                  
                                        2008年3月1日 長谷川彌由紀記
                                      






ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック